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予想を超えた展開!新型シビック(価格)の復活とホンダの歴史について

予想を超えた展開!新型シビック(価格)の復活とホンダの歴史にについて書いてみました。ホンダ・シビック(新型)と言えば、日本車を代表する車であり、シビック(新型)は現在でも世界中にシビックオーナーというものが存在するある意味隠れた名車とも言われている存在です。ホンダ・シビックは1972年(昭和47年)に日本国内で初めて発売されて以来、実に45年の時を経た2017年復活、しかも今回の発売は当初の予想をはるかに上回る受注を受け好発進、特に新型シビックタイプRなどはがシビック史上最強モデルとして発売されています。

 

新型シビックには、スバルやマツダ、そして輸入車に流れてしまったユーザーをホンダに取り戻す役割がある!

 

ホンダについて

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社  名 :本田技研工業株式会社
本  社  :〒107-8556 
      東京都港区南青山2-1-1 
      TEL. 03-3423-1111(代表)
設  立 :1948年(昭和23年)9月
代 表 者  :代表取締役社長 八郷隆弘(はちごう たかひろ)
主要製品 :二輪車、四輪車、パワープロダクツ

資本金:860億円

従業員数:211,915名(連結)

2016 年世界販売実績

全世界累計台数:2,876 万台
二輪:1,759万台
四輪: 505万台
パワープロダクツ:612万台(耕うん機、除雪機、発電機など)

 

ホンダの歴史について

「これができたら、みんな喜ぶだろうなぁ」

自転車が主な移動手段だった1946年。旧陸軍が所有していた無線機の発電用エンジンと出会った本田宗一郎氏は、遠くへ買い出しに行く奥さんを思い出し、そのエンジンを自転車の補助動力にすることを発案。約500基あったエンジンを、自転車用補助エンジンにつくり変えて売り出しました。それまでにない便利さが受け注文が殺到、たちまち在庫がなくなると、本田宗一郎氏は自社製エンジンの開発に着手。そして1947年、Hondaの名が記された最初の製品として、このA型エンジンを完成させました。

 


1948年:

本田技研工業株式会社 創立

従業員34人、資本金100万円。浜松の小さな町工場で自転車用補助エンジンの製造からスタート。

 

1953年:

汎用事業開始
農機用エンジンのH型に始まり、1959年
には耕うん機F150を発売。


1954年:

マン島TTレース出場宣言
二輪最高峰とされたレースへの出場を宣言。5年後の1959年に初出場。

 

汎用事業開始
農機用エンジンのH型に始まり、1959年
には耕うん機F150を発売。


マン島TTレース出場宣言
二輪最高峰とされたレースへの出場を宣言。5年後の1959年に初出場。


1958年:

スーパーカブ発売
誰にでも扱いやすい便利な乗り物として
大ヒット。


1959年:

アメリカ進出
ロサンゼルスに初の海外現地法人
アメリカン・ホンダ・モーターを設立。


1960年:

(株)本田技術研究所 設立
より自由な発想で研究開発に専念できるようにと、
本田技研工業(株)から独立し発足。


1962年:

初の海外現地生産を
ベルギーで開始


1963年:

待望の四輪進出
軽トラックのT360に続いてスポーツカーの
S500も発売。


1964年:
F1 初出場

日本初のF1マシンRA271が第6戦ドイツGPでデビュー。
翌年最終戦メキシコGPで初優勝。


1972年:

低公害CVCCエンジン発表
当時最も厳しいとされたアメリカの排出ガス
規制マスキー法を世界で初めてクリア。


1982年:

アメリカで日本メーカー初の
四輪車現地生産を開始


1986年:

小型航空機と
航空機用エンジンの研究を開始


1988年:

F1史上初の16戦15勝

アイルトン・セナとアラン・プロストの操る マクラーレン・ホンダMP4/4がサーキットを席巻。


2000年:

ヒューマノイドロボット ASIMO発表

小型軽量で人間の歩き方に近い二足歩行が可能になった新しい人間型ロボットを実現


2014年:

二輪車の世界生産
累計3億台を達成


2015年:

F1再挑戦
新たな技術的チャレンジを求めパワーユニット
サプライヤーとして7年ぶりにF1に参戦。

HondaJet引き渡し開始

アメリカの連邦航空局による型式証明を取得し、お客様への引き渡しが開始。


2016年:

燃料電池自動車
CLARITY FUEL CELL発表
燃料電池自動車トップクラスの一充填
走行距離約750kmを実現。

 

四輪車の世界生産
累計1億台を達成

 

シビックは車の伝道師であるホンダらしさをいちばんピュアに表現できる車種である

 

ホンダシビックタイプR


ホンダは、ジュネーブモーターショーで、新型シビックタイプRの市販モデルを世界に初めて公開しました。

 

 新型シビックタイプRは新型シビックハッチバックをベースとして、サーキットでも街中でも爽快かつハイレベルなドライビングを楽しめることがてきるホットハッチとして開発されています。

 

 新型シビックは、21世紀型新世代の2リッターVTEC(ブイテック)ターボエンジンを搭載し、最高出力320馬力と中型車にもかかわらず凄まじいパワーを体感できます。さらに新型シビックは、エンジンのセッティングについても、”誰が運転しても最適にコントロール”できるように、車両の運転のしやすさ、運転性、ドライバーの意図どおりの加速、定常、減速走行ができるドライバビリティと、またアクセル操作、所謂(いわゆる)「車が素直に反応してくれる」スロットルレスポンスについても新型シビックは超進化を遂げています。

 

 変速ミッションは6速のマニュアルを搭載し、レブマッチングコントロールにより正確でスムーズなドライビングが可能になりました。

 

 

新型シビックタイプRはシビックハッチバックより丈夫でかつ軽量なボディを持ち、重要なポイントに溶接を増やした結果、先代モデルと比較して、ボディの強度、ねじれ剛性が38%も向上、

 

 

前輪のサスペンションは、シビックハッチバックのものを改良したマクファーソンストラットサスペンションで、トルクステアを小さくして小回りのきくスポーティなハンドリング性能を実現。

 

 

後輪は新型の独立懸架マルチリンク式サスペンションを搭載、ハッチバックに比べて頑丈なサスペンションアーム採用で性能も格段に向上しています。

 

ドライビングモードは、スポーツモード、+Rモード、 あらたにコンフォートモードを設定。どのモードでもアダプティブダンパーや操舵力、シフトフィーリング、スロットルレスポンスを必要に応じて最適化することができます。

 

 

新型シビックは、リアウイングの軽量化やフロントエアカーテン、ルーフラインのボルテックスジェネレーターなどにより、先代モデルより高速走行時の空気抵抗、エアロダイナミクスが向上。力強くアグレッシブなボディで、ハイスピードでもクラストップの安定性を誇ります。

 

まとめ

 当初の予想をはるかに上回った受注を受けたホンダシビック。ホンダシビックタイプR 2017モデル の発売価格は4.500.000円。根強いマニュアル車を好むドライバーに愛されています。

ローラの経歴とファンクラブ解散、独立騒動。ローラはどこに向かっているのか?

ローラの経歴とファンクラブ解散、独立騒動。ローラはどこに向かっているのか?について書いてみました。バラエティ番組には常に登場し、またサントリー、ユニクロ、楽天など、超一流有名企業のイメージキャラクターも務める人気モデルでタレントのローラが、事務所である「LIBERA(リーベラ)」社長とのトラブルが報道され関係は修復不能、芸能界引退?も一時危機が囁かれ現在、ローラと所属事務所「LIBERA(リーベラ)」との契約問題を発端とした独立騒動に新たな展開が起きています。

 

《黒い心を持った人とは絶対に一緒にいたくない。10年の信頼をかえしてください》と、自身のTwitterに事務所とのトラブルを示唆していた

 

ローラのプロフィール

「ローラ画像」の画像検索結果

画像引用元:ローラ画像 - Google 検索

 

本名:佐藤えり

※デビュー当時の芸名:「西園寺ローラ」

生年月日:1990年3月30日(27歳)

出身地:東京都

身長:164㎝

体重:47㎏

血液型:B型

兄弟:双子の兄

言語:日本語、ベンガル語、英語が少しが話せる

口癖:おっけー、まいっかー、いい感じー、うんわかったー、うふふふ

職業:タレント・モデル・女優

所属事務所:LIBERA(リーベラ)

趣味:絵を描くこと、トランペット、アーチェリー、釣り

特技:料理、ボウリング(スコア200!)

好物:わらび餅、きゅうり、さくらんぼ、梨、マンゴー、豆大福、チョコレート、韓国料理、お酒(特に梅酒)

※コントロールしつつも食べることが超楽しみで大好き

苦手:グレープフルーツ、おしるこ、らっきょう、イチヂク、コーヒーゼリー

※ローラとう今の芸名は、アメリカの懐かしの海外ドラマ「大草原の小さな家」
に登場する「ローラ」からとっています。

 

ローラの経歴

複雑な家庭環境で育った幼少期のローラ

ローラの父親はバングラデシュ人で、母親は日本とロシアのクォーターです。

 

ローラは1990年に日本で生まれますが、その後1歳の時に父親の故郷であるバングラデシュへ行くことになります。そしてローラは6歳で日本へ帰国。しかしその後もローラは父親の故郷であるバングラデシュへ往復する生活が続き言葉や勉強もままならないまま、その間にローラの両親は離婚しました。

 

その後ローラの父親は中国人女性と再婚し、1999年(平成2年)、ローラが9歳になった頃、東京都国立市にある粗末で小さな木造のアパートで暮らすようになります。

 

当時のローラは双子の弟と父親、そして、ローラの父親と再婚した中国人の母親のとの間に生まれた双子の赤ちゃん、そして中国人の母親の両親との合計8人で生活していました。

 

狭いアパートでの生活がしばらく続いたあとローラの父親と再婚した中国人の母親の両親はそのままアパートに残り、ローラ 一家は多摩市の都営団地の抽選に運よく当選し引っ越しますが暮らしはけっして楽ではなく、かなり貧しい生活を強いられ、ローラは高校生になると地元のホームセンターでアルバイトし、家計を支えていました。


複雑な家庭環境のローラ

小学生時代ローラは日本語が話せなかった

ローラは6歳で日本に帰国、その時ローラはベンガル語しか話せないまま小学2年生として入学します。そのためローラは最初ジェスチャーで会話を乗り切っていましたが、いじめなどは一切なく不思議と学校でのローラは人気者で楽しく過ごしていました。

 

そしてローラは小学4年生の頃にようやく日本語が話せるようになりますが、再びバングラデシュへ戻ります。しかしローラ、今度はベンガル語を忘れてしまい、現地の英語学校に入学しますが英語もバングラデシュ語も分からず、結局その時ローラが覚えたのは発音だけでした。

その後また日本に帰国したローラ。

ローラ曰く、『日本語をまともに話せるようになったのは中学3年生の頃だったよ』語っています。

 

高校時代にスカウトされたローラ

高校生のローラは地元のホームセンターでアルバイトし、家計を支えていましたが、その頃の夢は、「スチュワーデスになって世界中を国々を回ってみたい」と考えていたローラでしたが、16歳の時に渋谷で芸能プロダクションにスカウトされ、その後の人生が大きく転換していきます。

 

 

ローラ、LIBERA(リーベラ)との独立騒動に新たな展開

ローラ ファンクラブ解散、独立騒動で新展開 コンテンツ更新できず

2017年に入ったローラは、それまで当たり前のよいうに登場、引っ張りだこだったレギュラー番組が全くなくなってしまいます。ある芸能レポーターは「やはり事務所独立へのカウントダウンとみる人は多いようです」と語ります。デビューして10年のローラでしたが、2017年6月のツイッターでのつぶやきが、事務所への不信感と、彼女を見いだし育ててきた社長との関係悪化している原因ではないかとみられています。


2016年12月公開のハリウッド映画『バイオハザード:ザ・ファイナル』に出演を果たしたローラでしたがこれは海外進出を夢見ていた所属事務所:LIBERA(リーベラ)の社長と二人三脚で手にした大仕事だでした。しかしそんな事務所の社長も現在ローラのことをうまく管理できていないようです。そこにはある男性のカゲがあるといいます。

ローラは今、彼女はあるデザイナーに心酔していて、私服も彼のブランドのものしか着ていないんじゃないかと思うほど。その人は世界的に有名なデザイナーのマッシモ・ジョルジェッティで、彼女のインスタグラムにも頻繁に登場しています。

マッシモは今年4月まで一流ブランド『エミリオ・プッチ』のクリエイティブディレクターを兼務。自分が故郷・イタリアで立ち上げたブランド『MSGM』は、本国をはじめ、世界中の若者に人気を誇っている有名なデザイナー。

 

ローラとの出会いのきっかけは、'2013年ごろに自分のブランドを着ている彼女の姿をインスタで発見。日本のスタッフを通じ、彼女を紹介してもらったのが始まりでした。

 

今では雑誌で着用する服や撮影地など、事務所がOKしてもローラ本人から“マッシモに相談する”と言って、彼の意見を聞いてから何もかも決めています。予定が急に変わることもしばしばで、ますます事務所はローラをコントロールできなくなっているようで、もともと、海外志向が強いローラは、彼の意見をいちばん尊重する。今後は活動拠点を日本から海外に移すのではないかともいわれています。

 

まとめ

バラエティ番組などで引っ張りだこだったローラに芸能人としての生命が絶たれてしまう可能性もある事務所独立。話題のローラもだいぶ事務所側とこじれているようですが、はたしてローラはどこへ向かおうとしているのでしょうか?今後の展開にも目が離せないところです。