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ポール・ボキューズの画像と経歴、日本各地にも絶大な人気を誇るフランス料理店を持つ偉大なシェフについて

ポール・ボキューズ画像経歴、日本各地にも絶大な人気を誇るフランス料理店を持つ偉大なシェフについて書いてみました。ポール・ボキューズ氏は、フランス・リヨン郊外で、1965年以来、世界中の美食家を魅了し続ける、三ツ星フランス料理の名店「ポール・ボキューズ」を手がけるオーナーシェフです。また日本ではポール・ボキューズ氏の正統なるフランス料理の文化を日本にも伝えるためにつくられたレストラン、「メゾン ポール・ボキューズ」があり、華麗なる美食の世界がこの日本でも味わえ多くの人々に感動をあたえ日本でも大人気となっています。

 

ボキューズ氏の基本「良い素材!良い火加減!良い味付け!」基本に忠実シンプル。一度食べるとまた食べたくなる、安心感と幸せを与えてくれる味わい!

 

ポール・ボキューズのプロフィール

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名前:ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)

生年月日:1926年2月11日(日本は昭和1年)

没年月日:2018年1月20日(91歳)

出身地:フランス南東部リヨン近郊、ローヌ県

※ローヌ県(Rhône)はフランス南東部に位置する、ローヌ川の流れる県

国籍:フランス
職業(専門):料理人
肩書:「ポール・ボキューズ」・オーナーシェフ

 

経歴

リヨン近郊コロンジュ・オ・モン・ドールのレストランに料理人の子として生まれます。

 

1942年(昭和17年)、16歳の時からフランス、リヨンの有名レストラン《レストラン・ド・ラ・ソワリー(Restaurant de la Soierie)》で料理の修行を始めを始め、また

1933年(昭和8年)からミシュランガイドの3つ星を守り続けたフランス、リヨン近郊ヴィエンヌにある、これまたフランスの超有名料理レストラン「ラ・ピラミッド」 のオーナー・シェフ「フェルナン・ポワン」氏より見込まれ直接指導を受けています。

 

ポール・ボキューズ氏は1960年(昭和35年)に自身の店をオープンさせて以来、ミシュランの星を次々に獲得しフランス料理界に旋風を巻き起こします。

 

また、ヌーベルキュイジーヌ (nouvelle cuisine)という言葉は、フランス語で「新しい料理」 を意味するのですが、新鮮な素材を加熱調理時間の短縮によって香りを生かして軽やかに仕上げたり、ソースに小麦粉やバターを極力使わず軽く仕上げるなどの傾向が見られた1970年代以降流行した調理方法でそれまでのフランス料理にはなかった斬新なスタイルの料理や見せ方の方法を積極的に採用したことにより、1970年代“ヌーヴェル・キュイジーヌ”のリーダーと目され、それまであまり有名ではなかったフランス料理を、オシャレで洗練された、楽しめる料理である!と世界に認めさせる功績を残しました。

 

 

日本のレストラン「ポール・ボキューズ」

 

「ポール・ボキューズ」氏の料理の基本は、「良い素材、良い火加減、良い味付け」であるといいます。素材に対し忠実で、よけいなことをせず素直な味付け、そして少し遊び心のあるプレゼンテーションをモットーに、安心や温もりを提供するレストランを目指します。このポール・ボキューズ氏の心を日本の人にも味わってもらいたいと2007年、日本における総本山として「メゾン ポール・ボキューズ」が誕生しています。アールヌーボー調の温かみあふれる雰囲気の店内には、2つダイニング、サロン、バーラウンジがあり、様々なダイニングシーンを華やかに演出します。フランス、リヨンの本店から受け継いだ、世界中の人を魅了した華麗な美食の世界が楽しめます。

 

世界最高峰!フランスで最も有名なシェフトップ10に選ばれている

世界で最も観光客の多い国と言われているフランスは、美食の国としても有名で、実は本場のおいしいフランス料理を味わうために、世界中からグルメな観光客がこぞってやってきています。そしてその世界の美食家たちの舌を唸らせる世界最高峰のフランス料理を提供し売上高でもトップ10のうち第3位のポール・ボキューズ氏。

死ぬ前に一度は、この10人のシェフの料理を食べてみたいと言われている中の一人です。

 

ポール・ボキューズ氏のレストランについて

 

売上総額:5300万ユーロ (約68億円)
レストラン店舗数 :21店舗
星の数(総数):3星

ポール・ボキューズ氏は、フランスのリヨン近郊にある3つ星レストラン「ポール・ボキューズ」のオーナーで、91歳でなくなるまで人気の現役オーナシェフでした。

 

またボキューズ・ドール賞の創設者でもあり、 1959年に生家のレストラン「ポール・ボキューズ」を継いで、1961年には国家最優秀職人章(MOF)を取得、1965年に得たミシュランの3つ星を、2015年度で何と50年間維持しています。 これは、ミシュランの歴史上、文句なしの3つ星最長在位記録です。また1970年代に来日した際には、懐石料理・京料理の料理法や盛りつけに触発され、素材を活かす料理法を取り入れたり、盛りつける皿を料理ごとや季節ごとに変えたりするなど、地味だったフランス料理の盛りつけを根底から変えて新たなフランス料理の時代を切り開いた料理人としても有名です。

 

まとめ

日本にも数多くの超有名シェフの弟子をもつ偉大なフランス料理界の巨匠ポール・ボキューズ氏は91歳の生涯を静かに終えられました。彼の残した功績はこの日本にも確実にいきづいています。ご冥福を心よりお祈りいたします。

浅野ゆう子の経歴と元恋人、田宮五郎に捧げた献身的愛について

浅野ゆう子経歴元恋人田宮五郎に捧げた献身的愛について書いてみました。女優の浅野ゆう子さんが、2017年末に一般男性と結婚していたことを1月11日、フジテレビ系ドラマ「抱きしめたい!」で共演した女優の浅野温子さんが祝福のコメントを所属事務所を通して発表し話題になっています。

浅野ゆう子さんは今回の結婚の前には俳優の田宮五郎さんと結婚を考えた真剣な交際をしており既に一緒に住んでいたのですが、残念ながら元恋人である俳優の田宮五郎さんは病で2014年に亡くなってしまいました。


交際途中に病に倒れた元恋人田宮五郎に、趣味もやめ自分の時間のほぼ全てをリハビリに捧げていた献身的愛


浅野ゆう子のプロフィール

画像引用元:[浅野ゆう子]の検索結果 - goo検索

芸名:浅野 ゆう子(あさの ゆうこ)
本名:赤沢 裕子(あかざわ ゆうこ)
生年月日:1960年7月9日(57歳)
出生地:兵庫県神戸市
身長:167 cm
血液型:AB型
職業:女優

憧れの女優:野際陽子
デビュー:1974年~
所属プロダクション:アベベネクスト

 

浅野ゆう子公式サイト:

http://abebe-next.com/act_asano.html

 

浅野ゆう子公式ブログ:

http://blog.asanoyuko.jp/

 

経歴


浅野ゆう子さんは小さい頃から華やかな世界に憧れを持つ少女で、3歳の時に両親が離婚、以来お母さんと二人での生活が始まります。

 

本名である裕子の”裕”はお母さんがずっと憧れていた、石原裕次郎さんの”裕”をとってお母さんがつけました。

 

芸能界への憧れを持つ娘の浅野ゆう子さんに対しお母さんもまた真剣に娘である浅野ゆう子さんを芸能界へ入れたいと考えていて、小学生の時とても歯並びの悪かった浅野ゆう子さんにお金に糸目を付けることなど一切せず一流の歯医者で歯を矯正させたり、写真のモデルとしても通用するよう足がキレイに伸びるようにと当時としては珍しく絶対に正座をさせずまた足のマッサージ等も欠かさなかったといいます。

 

また浅野ゆう子さんは小学4年生の時既にナンパされた経験があり、当時の子供にしては体の発達がとても早くスタイル抜群、お母さんからの芸能界へのデビューという愛情と生活の管理という賜物もあり小さい頃から大人びたセクシーさを持っていました。

 

そして、1972年(昭和47年)浅野ゆう子さんが12歳(小学6年生)の時に応募したCMのオーディションで見事入賞、この時大手芸能事務所からスカウトされお母さんと共にずっと憧れだった芸能界へと入っていきます。

 

デビュー

浅野ゆう子さんは、1974年(昭和49年)中学生2年生の時アイドル歌手として「研音/RCAレコードからデビューします。

 

デビュー当時浅野ゆう子さんのアイドルとしてのキャッチフレーズは「ジャンプするカモシカ」???・・・?という現代ではちょっとありえないキャッチフレーズで活動していたのですが、1970年代当時の芸能アイドルは2000年代以降のアイドルとは当時の価値観が全く違い、アイドルは”小柄”な人が殆どで、しかも小柄な人しか売れてなく、浅野ゆう子さんのような長身で足が長く、ハリウッド女優のような抜群のプロポーションを持つアイドルであったとしても、当時の日本のアイドル歌手としては大人気というところまでは残念ながらいきませんでした。


しかし、浅野ゆう子さんは当時まだ中学生ながらハリウッド女優並みの抜群のプロポーションと大人びたルックスさという他のアイドルにはない個性があり、それがお母さんの憧れだった大物俳優、石原裕次郎さんの目に留まり、当時大人気だったテレビドラマ『太陽にほえろ!』に警察署・捜査第一係の2代目内勤員(お茶くみ)役として出演、これがその後大女優として活躍していく第一歩となりました。

 

 

心優しく一途な心の持ち主


浅野ゆう子さんが以前交際していたのは俳優の田宮五郎さんで、2014年11月6日、くも膜下出血で亡くなっています。

 

田宮五郎さんは、フジテレビ系列の大人気ドラマだった『白い巨塔』や『クイズタイムショック』(NET、現テレビ朝日)の司会者などで知られる偉大な名俳優・田宮二郎さんの次男です。


浅野ゆう子さんの元彼である、田宮五郎さんは偉大な父、田宮二郎さんに憧れ、小さい頃から俳優を目指していたのですがその偉大な父の教えは、「人間を知らずにこの職業(俳優)につくものじゃない。自分は若くして俳優になったので、想像でしか役に入れなかった」という言葉でした。


田宮五郎さんはその遺言を守り、日本語教師、料理人、大工、造園業などありとあらゆる職業を経験し、それから俳優になったため、遅咲きすぎるデビューであり、田宮五郎さんにはなかなか仕事が回ってきませんでした。

 

そんな彼をサポートしたのが元々、同じ事務所に所属していた浅野ゆう子さんで、二人がお互いを認め合うのに時間はかかりませんでした。

 

田宮五郎さんは浅野ゆう子さんを必要とし、浅野ゆう子さんもまた田宮さんを必要としていたのです。


浅野ゆう子さんは自身が芸能界で成功し独立してからも、彼のために自分の知り合いのプロデューサーに頭を下げ、自分の出演するドラマや映画に田宮さんを出演できるように頼み込んだり、彼の俳優としての道をサポートします。

 

正式に交際がスタートしたのは2007年で、金銭的に苦しかった田宮五郎さんに、浅野ゆう子さん自身が経営していた眼鏡店で従業員として働いてもらうなど、公私にわたって浅野ゆう子さんは彼を助けます。

 

真剣に結婚を考えるようになった二人は、2009年にマンションを2億円で購入、同棲生活をスタートさせるのですが、2012年4月、田宮五郎さんがくも膜下出血を発症、一命は取り留めたものの左半身に麻痺、そして脳にもダメージが残り、そのため後遺症から感情の抑制も一部きかなくなり、会話が噛み合わなかったり、声のボリュームが調節でず大声になったりなど、一刻も早く復帰したいのに、思うように体が動かないため、イライラが募り、感情を爆発させてしまうこともあったのですが、浅野ゆう子さんは、大好きな彼のために自分の時間をほぼ全て田宮さんに捧げていたといいます。

 

ある芸能記者は、「当時の浅野ゆう子さんは趣味のテニスやゴルフ等全てをやめて、仕事以外の時間は、田宮さんと一緒にいて、献身的に彼のリハビリを支えました。その甲斐もあってか、当初は車いすだった彼も、杖をついてですが、ひとりで外出もできるほど回復したんです」と話しています。

 

しかしその後、田宮五郎さんは浅野ゆう子さんの献身的サポートを受けながらも2014年11月6日、47歳という若さで、くも膜下出血で亡くなりました。

 

まとめ

とても優しく、一途な浅野ゆう子さん。元彼だった田宮五郎さんの死を乗り越え,

服飾関係の会社を経営する一般男性と一年半のお付き合いの後めでたくゴールインされました。今度は是非幸せになって欲しいと思います。