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日馬富士の経歴と、日馬富士、貴ノ岩暴行問題の真相について!

日馬富士の経歴と、日馬富士の貴ノ岩暴行問題の真相について書いてみました。日馬富士の貴ノ岩暴行問題については、他の横綱への警察の事情聴取や聞き取りなど様々なニュースなどで連日報道されていますが、秋巡業中の10月25日深夜から26日未明にかけて鳥取市内のラウンジで起きた同じモンゴル出身の幕内貴ノ岩関への暴行問題。表面化から16日後ついに横綱日馬富士が、横綱としての責任を感じ引退するということにまで事件が発展してしまいました。しかしこの日馬富士関による貴ノ岩暴行問題については、事件当日のその数日前から、日馬富士関と貴ノ岩関の間にはなにやら危険な雰囲気が立ち込めていたというのです。

 

「16歳から猛稽古を積み重ね、さらに勉強もし、社会貢献にも熱心な力士、酒癖、乱暴など見たことも聞いたこともなく、なぜこんなことになってしまったのかとただただ残念でならない」と涙を流す、師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)

 

横綱日馬富士のプロフィール

画像引用元:http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile/2308/

 

本名:ダワーニャム・ビャンバドルジ

力士名(四股名):日馬富士 公平(はるまふじ こうへい)

生年月日:1984年(昭和59)年4月14日(33歳)

出身地 モンゴル・ゴビアルタイ

身長 186.0cm

体重 137.0kg

血液型:O型

趣味:水彩画・ゴルフ

好きな言葉:「全身全霊」・「なんでやねん」

得意技 右四つ・寄り

力士(四股名)履歴:安馬 → 日馬富士

最高番付:第70代横綱

所属部屋:伊勢ヶ濱(いせがはまべや)
※伊勢ヶ濱部屋は、日本相撲協会所属で伊勢ヶ濱一門の相撲部屋。

 
他の活動

特定非営利活動法人ハートセービングプロジェクトでの慈善活動

※ Heart Saving Project ハートセービングプロジェクトとは、日本の小児循環器医師、看護師、医療関係者がモンゴルの心臓病の子どもたちを救おうと立ち上げた医療ボランティア活動を支援するNPO法人です。

Heart Saving Project

 

戦歴・受賞歴

幕内優勝:9回

 

十両優勝:1回

 

幕下優勝:0回

 

三段目優勝:1回

 

序二段優勝:0回

 

序ノ口優勝:1回

 

殊勲賞:4回

 

敢闘賞:1回

 

技能賞:5回

 

金星:1回

 
生涯戦歴

827勝444敗85休(101場所)

 
幕内戦歴

712勝373敗85休(78場所)

 

決まり手の傾向

寄り切り: 20

押し出し: 7

上手出し投げ: 4

その他 」17

 

寄り切り

42%

 

押し出し

15%

 

上手出し投げ

8%

 

その他
35%

71取組48勝うち不戦勝1含む

※過去6場所の取組結果に基づく

 

 

始まりは日馬富士、貴ノ岩の錦糸町での口論だった

横綱”日馬富士”関が平幕の”貴ノ岩”関を殴打した問題ですが、実は事件当日からさかのぼること1ヶ月前に事件の発端がありました。

 

鳥取で起きた横綱”日馬富士”関の暴行問題は、実はその約1カ月前、東京都墨田区錦糸町での他の力士と平幕”貴ノ岩”関とのトラブルが根底にあったのです。

 

警察の捜査では、9月下旬東京都墨田区錦糸町の、とあるバーでの出来事、酒に酔った平幕”貴ノ岩”関が、モンゴル出身の若い後輩力士を説教していました。そしてだんだんと興奮状態になり声を荒らげ、ヒートアップしてきたために、同席していた同じモンゴル出身の元幕内力士、元十両力士(現在は引退)らが止めに入り「ほかにお客さんもいる。力士が大声出したら怖がられるからやめなさい」と、なだめたのですがしかし、貴ノ岩関はそれを無視、興奮はおさまらず、その時モンゴルから来日していた横綱白鵬の友人もいる中、貴ノ岩関は、「俺は横綱白鵬に勝った」「あなたたちの時代は終わった」「これからは俺たちの時代」などと暴言を吐き、他の力士たちと口論になっていたのです。

 

同席していた元幕内力士達の証言では、「注意したつもりが、貴ノ岩はでかい声で返してきた。横綱の友人もいたのに…」と振り返っています。横綱白鵬を否定されたように受け止めた白鵬の友人は、とても気を悪くしていました。

 

そして迎えた今回の事件当日である、10月25日の夜。ちゃんこ店での1次会を終えた力士ら一行は、2次会会場にに向かいます。

 

横綱白鵬”関は9月の錦糸町での暴言に対し、貴ノ岩関の態度を叱りました。先輩力士への口の利き方などをあらためるように言い聞かせたのですが、貴ノ岩関は話の最中にテーブルの下でスマートフォンを操作。

 

これを見た日馬富士関が台激怒、「お前、大横綱が話してる時に何してんだ」と頭をたたいたが、反抗的な態度をとったため、さらなる暴行につながっていったとされています。

 

捜査関係者によれば、日馬富士は聴取に対し、暴行を認めた上で「ビール瓶では殴っていない」とし、止めに入った照ノ富士もたたいたと説明。飲食店には、白鳳、鶴竜、日馬富士の3横綱、照ノ富士、貴ノ岩、石浦のほか地元関係者らが同席。ビール瓶については一部出席者による証言の食い違いもあるようです。

 


日馬富士福岡県内で引退会見

日馬富士関は、貴ノ岩関に暴力を振るった経緯について「先輩横綱として、(貴ノ岩は)礼儀、礼節がなっていないと思った。正すことが先輩の義務だと思った」・「(貴ノ岩にとって)正しいことをしたという認識だった」と説明。

 

また、酒癖が悪いと報じられたことについて日馬富士関は、「今まで、酒を飲んで人を傷つけたり暴れたりということは一切ない。酒を飲んだから起きた事件ではない」と言葉に力を込め記者の質問に答えていました。

 

 

まとめ

ともに記者会見に臨んだ師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)は「16歳の頃から稽古、稽古。色々な勉強もし、社会貢献にも熱心な珍しいタイプのお相撲さん。酒癖が悪いとか乱暴をするなど見たことも聞いたこともなく、なぜこんなことになってしまったのかとただただ残念でならない」と涙を流していたのですが大横綱のこのような引退、少し寂しいような気がします。

予想を超えた展開!新型シビック(価格)の復活とホンダの歴史について

予想を超えた展開!新型シビック(価格)の復活とホンダの歴史にについて書いてみました。ホンダ・シビック(新型)と言えば、日本車を代表する車であり、シビック(新型)は現在でも世界中にシビックオーナーというものが存在するある意味隠れた名車とも言われている存在です。ホンダ・シビックは1972年(昭和47年)に日本国内で初めて発売されて以来、実に45年の時を経た2017年復活、しかも今回の発売は当初の予想をはるかに上回る受注を受け好発進、特に新型シビックタイプRなどはがシビック史上最強モデルとして発売されています。

 

新型シビックには、スバルやマツダ、そして輸入車に流れてしまったユーザーをホンダに取り戻す役割がある!

 

ホンダについて

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社  名 :本田技研工業株式会社
本  社  :〒107-8556 
      東京都港区南青山2-1-1 
      TEL. 03-3423-1111(代表)
設  立 :1948年(昭和23年)9月
代 表 者  :代表取締役社長 八郷隆弘(はちごう たかひろ)
主要製品 :二輪車、四輪車、パワープロダクツ

資本金:860億円

従業員数:211,915名(連結)

2016 年世界販売実績

全世界累計台数:2,876 万台
二輪:1,759万台
四輪: 505万台
パワープロダクツ:612万台(耕うん機、除雪機、発電機など)

 

ホンダの歴史について

「これができたら、みんな喜ぶだろうなぁ」

自転車が主な移動手段だった1946年。旧陸軍が所有していた無線機の発電用エンジンと出会った本田宗一郎氏は、遠くへ買い出しに行く奥さんを思い出し、そのエンジンを自転車の補助動力にすることを発案。約500基あったエンジンを、自転車用補助エンジンにつくり変えて売り出しました。それまでにない便利さが受け注文が殺到、たちまち在庫がなくなると、本田宗一郎氏は自社製エンジンの開発に着手。そして1947年、Hondaの名が記された最初の製品として、このA型エンジンを完成させました。

 


1948年:

本田技研工業株式会社 創立

従業員34人、資本金100万円。浜松の小さな町工場で自転車用補助エンジンの製造からスタート。

 

1953年:

汎用事業開始
農機用エンジンのH型に始まり、1959年
には耕うん機F150を発売。


1954年:

マン島TTレース出場宣言
二輪最高峰とされたレースへの出場を宣言。5年後の1959年に初出場。

 

汎用事業開始
農機用エンジンのH型に始まり、1959年
には耕うん機F150を発売。


マン島TTレース出場宣言
二輪最高峰とされたレースへの出場を宣言。5年後の1959年に初出場。


1958年:

スーパーカブ発売
誰にでも扱いやすい便利な乗り物として
大ヒット。


1959年:

アメリカ進出
ロサンゼルスに初の海外現地法人
アメリカン・ホンダ・モーターを設立。


1960年:

(株)本田技術研究所 設立
より自由な発想で研究開発に専念できるようにと、
本田技研工業(株)から独立し発足。


1962年:

初の海外現地生産を
ベルギーで開始


1963年:

待望の四輪進出
軽トラックのT360に続いてスポーツカーの
S500も発売。


1964年:
F1 初出場

日本初のF1マシンRA271が第6戦ドイツGPでデビュー。
翌年最終戦メキシコGPで初優勝。


1972年:

低公害CVCCエンジン発表
当時最も厳しいとされたアメリカの排出ガス
規制マスキー法を世界で初めてクリア。


1982年:

アメリカで日本メーカー初の
四輪車現地生産を開始


1986年:

小型航空機と
航空機用エンジンの研究を開始


1988年:

F1史上初の16戦15勝

アイルトン・セナとアラン・プロストの操る マクラーレン・ホンダMP4/4がサーキットを席巻。


2000年:

ヒューマノイドロボット ASIMO発表

小型軽量で人間の歩き方に近い二足歩行が可能になった新しい人間型ロボットを実現


2014年:

二輪車の世界生産
累計3億台を達成


2015年:

F1再挑戦
新たな技術的チャレンジを求めパワーユニット
サプライヤーとして7年ぶりにF1に参戦。

HondaJet引き渡し開始

アメリカの連邦航空局による型式証明を取得し、お客様への引き渡しが開始。


2016年:

燃料電池自動車
CLARITY FUEL CELL発表
燃料電池自動車トップクラスの一充填
走行距離約750kmを実現。

 

四輪車の世界生産
累計1億台を達成

 

シビックは車の伝道師であるホンダらしさをいちばんピュアに表現できる車種である

 

ホンダシビックタイプR


ホンダは、ジュネーブモーターショーで、新型シビックタイプRの市販モデルを世界に初めて公開しました。

 

 新型シビックタイプRは新型シビックハッチバックをベースとして、サーキットでも街中でも爽快かつハイレベルなドライビングを楽しめることがてきるホットハッチとして開発されています。

 

 新型シビックは、21世紀型新世代の2リッターVTEC(ブイテック)ターボエンジンを搭載し、最高出力320馬力と中型車にもかかわらず凄まじいパワーを体感できます。さらに新型シビックは、エンジンのセッティングについても、”誰が運転しても最適にコントロール”できるように、車両の運転のしやすさ、運転性、ドライバーの意図どおりの加速、定常、減速走行ができるドライバビリティと、またアクセル操作、所謂(いわゆる)「車が素直に反応してくれる」スロットルレスポンスについても新型シビックは超進化を遂げています。

 

 変速ミッションは6速のマニュアルを搭載し、レブマッチングコントロールにより正確でスムーズなドライビングが可能になりました。

 

 

新型シビックタイプRはシビックハッチバックより丈夫でかつ軽量なボディを持ち、重要なポイントに溶接を増やした結果、先代モデルと比較して、ボディの強度、ねじれ剛性が38%も向上、

 

 

前輪のサスペンションは、シビックハッチバックのものを改良したマクファーソンストラットサスペンションで、トルクステアを小さくして小回りのきくスポーティなハンドリング性能を実現。

 

 

後輪は新型の独立懸架マルチリンク式サスペンションを搭載、ハッチバックに比べて頑丈なサスペンションアーム採用で性能も格段に向上しています。

 

ドライビングモードは、スポーツモード、+Rモード、 あらたにコンフォートモードを設定。どのモードでもアダプティブダンパーや操舵力、シフトフィーリング、スロットルレスポンスを必要に応じて最適化することができます。

 

 

新型シビックは、リアウイングの軽量化やフロントエアカーテン、ルーフラインのボルテックスジェネレーターなどにより、先代モデルより高速走行時の空気抵抗、エアロダイナミクスが向上。力強くアグレッシブなボディで、ハイスピードでもクラストップの安定性を誇ります。

 

まとめ

 当初の予想をはるかに上回った受注を受けたホンダシビック。ホンダシビックタイプR 2017モデル の発売価格は4.500.000円。根強いマニュアル車を好むドライバーに愛されています。