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サーロー節子(反核運動家)の画像とプロフィール、夫や家族も調べてみた。

サーロー節子(反核運動家)の画像プロフィール家族も調べてみた。について書いてみました。いまから70年以上も前の1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を投下しました。当時、サーロー節子(反核運動家)さんは広島女学院に通う13歳の生徒でした。

自らの壮絶な被爆体験を語り、核廃絶訴えてきた反核運動家であるサーロー節子さんが、2017年12月10日、ノルウェー王国の首都にして最大の都市である、オスロでノーベル平和賞授賞式に参加し、その席でスピーチをすることが決まりました。

 

国際会議や各国の機関で平和と核兵器の廃絶を訴え続け、様々な発信をし続けてきたサーロー節子!!

 

サーロー節子のプロフィール

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名前:サーロー 節子 / セツコ・サーロー

名前(旧姓): 中村 節子(なかむらせつこ)

生年月日:1932年1月3日(85歳)

出身地:広島県・広島市

出身校 :

広島女学院大学

リンチバーグ大学(アメリカ合衆国バージニア州中部のリンチバーグに本部を置く共学私立大学)

トロント大学(オンタリオ州、トロントに本部を置くカナダの州立大学)

配偶者 :カナダ人(カナダ出身の英語教師)

子供: 息子2人

 

サーロー節子の経歴

1945年8月6日、当時広島で広島女学院に通う13歳の女子生徒だったサーロー節子さんは、第二次世界大戦、戦時中の日本で陸軍の学徒動員によって市内の陸軍司令部施設へ配属されました。

 

しかし陸軍司令部施設へ配属されたその初日にアメリカ軍により原子爆弾が広島に投下。

 

そのたった一発の爆弾によって一瞬にして14万人もの日本人の尊い命が奪われました。

 

その時サーロー節子さんは直接の原爆による被害は免れたものの、崩れた建物の下敷きになってしまいます。

 

しかしちょうど居合わせた軍関係者により下敷きになった建物から奇跡的に救出され命を取り留めますが、サーロー節子さんの8人の親族と多くの同級生は命を失いました。

 

その後のサーロー節子さんは、広島女学院大学卒業後、1954年アメリカに留学。

 

アメリカ合衆国バージニア州中部のリンチバーグに本部を置くリンチバーグ大学で1年間社会学を学びます。

 

1955年、ワシントンD.C.でカナダ出身の関西学院の英語教師と結婚。サーロー節子さんとご主人との出会いは、サーロー節子さんが広島女学院大学にいた頃、日本で知りあいます。その時ご主人は西宮市にある関西学院の英語教師をしていました。

 

1955年のワシントンD.C.で結婚の後、夫婦でカナダのトロントに移住し、トロント大学で社会福祉事業の修士号を取得、ソーシャルワーカーになります。現在85歳になったサーロー節子さんのご家族は、英語教師だった夫と2人の息子達です。

 

 

まとめ

被爆者の代表としてスピーチする時サーロー節子さんは、「広島のことをお話するときに、亡くなった人たちの魂の存在を感じる。」とこう語ります。愛する家族に支えられながら、原爆によって無残に命を奪われてしまった犠牲者のためにも、サーロー節子さんは、自身の残された人生を平和と核兵器の廃絶を訴え続けていくことが命を託された自分への使命だと感じています。平和な時代に生きている私達もこのことを他人事にせず、平和な未来へと繋いでいかなくてはいけないと思います。