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平尾昌晃の画像と経歴、えっ?あんな曲も・・意外なヒット曲も数々量産した偉人の素顔とは?

平尾昌晃画像経歴、えっ?あんな曲も・・意外なヒット曲も数々量産した偉人の素顔とは?について書いて見ました。平尾昌晃さんと言えば毎年大晦日恒例、紅白歌合戦のフィナーレを飾る「蛍の光」で指揮を担当していることで知られていますが、作曲家としてはソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風を手がけ意外なヒット曲も数々生み出していたことでも有名です。

 

高校1年生の時、偶然目にした新聞広告が人生を一変、歌手、作曲家への道につながっていた。

 

平尾昌晃プロフィール

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出生名 :平尾勇(ひらお いさむ)

別名 :平尾昌章(ひらお まさあき)

生年月日:1937年12月24日

※2017年7月21日死亡(満79歳)

出身地: 東京都新宿区(当時は、東京府東京市)

死没 2017年7月21日(満79歳没)

学歴 :慶應義塾高等学校中退

職業 :作曲家・歌手

共同作業者 :ミッキー・カーチス・山下敬二郎

 

平尾昌晃 公式サイト

https://hmstokyo.jimdo.com/

 

東京牛込の裕福な家庭に生まれた平尾昌晃さんは、第二次世界大戦も終わりに近づいていた昭和20年頃アメリカ軍による東京への空襲で家を焼かれて転居、中野、代々木と引っ越しますが、どの家も500坪とか600坪のお屋敷で、広壮な別荘のような家庭で裕福に育ちました。ひいお爺さんが、明治時代の初めに「平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん)」という化粧品メーカーを興し、日本で初めて化粧品にフランス語を使った「レートクレーム」という化粧品シリーズは昭和初期の代表的な化粧品の一つとして有名でした。

 

中学3年のとき、同級生のバンドで歌う

かなりませていた子供時代の平尾さんは、小学生の修学旅行で3人の先生相手にマージャンを打つことも平気な子供でしたが、明るくて優しい性格はクラスや先生の間でいつも人気者でしした。校風が自由で明るかったので、ノビノビとした毎日を送ります。

 

両親は仲のいいご夫婦だったそうで、お父さんの性格は温厚で、反対にお母さんは元気で活発。そしてそのお母さんは占いにとても熱心だったようで特に姓名判断に凝っていて平尾さんの名前を何度も変えていきます。

平尾さんの戸籍上の本名は「平尾勇(ひらお いさむ)」のままなのですが、平尾さんは小さい頃から体が弱く特に小学校の頃が一番病気がちだったそうで、そのころの名前は「平尾欣哉(きんや)」でした。中学2年生の時の名前は「平尾寿英(としひで)」、高校に進学した時には「平尾昌章(まさあき)」になりました。

 

中学校時代では卓球が好きで練習に明け暮れたおかげで物凄くが強くなり、世界選手権を夢見ていた時期もありましたが、もう一つ別の夢がありそれはプロ野球の実況アナウンサーになることで、落語をよく聴きにいっていました。ただしし、そんなこんなで勉強はさっぱりぜず学校の成績は後ろから数えたほうが早い方でした。しかしそんな平尾さんにお父さんは叱るなど一切せず、反対に「いまから勉強すれば間に合う!」と前向きに一声かけてくれ一夜漬けみたいな勉強をして当時難関だった慶応義塾高校を受験し見事合格します。

横浜へ通うことになるのですが、慶応義塾高校の同期生には今でも大活躍している歌手の加山雄三さんや、映画俳優の故、川口浩さんがいます。

 

偶然目にした新聞広告が人生を一変

高校1年生のとき偶然目にした新聞広告が人生を一変させたといいますが、その広告は「生徒募集! 日本ジャズ学校」というものでした。お父さんの兄にあたる平尾貴四男さんという叔父がクラシックの作曲家をしており、国立音楽大学の教授になった当時注目を集める存在となるのですが40歳半ばで亡くなり、また平尾さんのご家族も何かしらの楽器をたしなんでいる音楽家族なのですが彼はほとんど聴き役でした。

しかし戦争が終わると次から次えと欧米の音楽が入り込んできて日本の音楽も第一次の変換期に入ります。そんな時音楽学校の広告をみたとき「正確な英語とメロディーで歌えるようになりたい」と思います。しかしその時はまだプロの歌手になろうとは全く思っていたわけではなく軽い気持ちで東京・大久保に開校したの学校を訪ねます。

お金持ちの家で裕福に育った平尾さんはジャズ学校ということで、どんなオシャレな学校なんだろうと期待に胸を膨らませていくのですが、ところがその学校、田んぼの真ん中にある、なんの飾りっ気もないプレハブ校舎にビックリしたのとガッカリしたのを同時に感じ唖然となってしまったそうです。

あまりのショックにガッカリして帰ろうとしたその時、オーナーの白滝健司さんに声をかけられます。「日本に新しいジャズ文化を一緒につくらないか」という白滝さんの迫力に感動して即入校しました。学校では最年少の15歳、現在も女優で活躍する朝丘雪路さんも当時一緒でした。

学校は今まで体験できなったことがいっぱいあり面白くて仕方がなかったそうで、毎週1回だけの授業でしたがそれが待ち切れなくてしかたありませんでした。

半年ほどがたってオーナーの白滝さんに、当時大人気だったグループ「チャック・ワゴン・ボーイズが新人歌手を探している。オーディションを受けてみろ」と言われます。そのバンドはカントリー&ウエスタンで、ジャズを愛しジャズミュージシャンを目指していた平尾さんには畑違いなのですが、それでも強引に勧められてオーディションを受けたらなんと20人の中から選ばれてしまいました。

それからチャック・ワゴン・ボーイズのボーカルとして主にアメリカ軍の基地で歌いその後ライバルだったワゴン・マスターズと一緒になってオールスターズ・ワゴンが誕生していくのですがこれが平尾さんの今後の人生における岐路になるのです。

その時高校3年生だったのですが、卒業後の進路を真剣に考えなければいけませんでした。大学に進んで会社勤めをするのか?、このままプロ歌手の道を目指すのか>。悩んだ末に、湘南学園時代の恩師、桜庭行(あきら)先生に相談すると「君はコツコツ仕事をするサラリーマンタイプでないし、大学はいかなくてもいいよ。歌手でやりなさい」と言われます。さっそく家族会議が開かれましたが、平尾さんは末っ子ということもあり、誰も正面切って反対しませんでした。

その後慶応高校を中退しプロを目指してバンド活動に専念する道を選びます。そんなある日、所属していたバンドのリーダーである鳥尾敬孝さんからこう言われます。「バンドから離れることにした。平尾君に後を継いでもらいたい・・・」とても自分には無理と断るのですが最終的に断りきれず引き受けることになり、18歳で超有名なバンドのリーダーの誕生となるのです。平尾さんは「本当に足が震えるようでした」と後に語っています。

 

 

まとめ

多くの歌手の方に楽曲を提供し、意外な曲も数々作曲していた平尾昌晃さん。本当にお疲れまさでした。ご冥福を心からお祈りいたします。