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栃ノ心の画像と経歴、不運の連続から奇跡の復活を遂げた男の素顔とは?!

栃ノ心画像経歴、不運の連続から奇跡の復活を遂げた男の素顔とは?!について書いてみました。

 

関脇ながら初日から連勝を続け、これまで勝てなかった横綱白鵬とも対等に戦い、

 

黙々と憧れの横綱を目指す超マジメな、外国人力士”栃ノ心”。

 

しかし苦節10年、2016年に初めて新関脇となった”栃ノ心”ですが、しかしこの”栃ノ心”という力士ほど、

 

浮き沈みの激しい波乱万丈な相撲人生を送った力士は過去にいないだろうと言われているのをあなたはご存知でしょうか?

 

 

今回は、2018年初場所から快進撃を続け横綱を目指す”栃ノ心”の素顔についてスポットを当てて見たいと思います。

 

全くの素人が、「強くなりたい!」というその一心で人一倍の努力を積み重ね正統派ファイターとなる!

 

”栃ノ心”のプロフィール

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名前:栃ノ心 剛史(とちのしん つよし)

本名:レヴァニ・ゴルガゼ

生年月日:1987年(昭和62年)10月13日(30歳)

出身地 :ジョージア国・ムツケタ市

※ジョージア 国は、ソビエト連邦の構成国でしたが、1991年(平成3年)に独立。この国の事を日本では以前”グルジア”と呼んでいましたが、現在はジョージアと呼んでいます。

身長 :192.0cm

体重: 177.0kg

血液型:AB型

星座:てんびん座

血液型:AB型

家族:妻、(2015年6月結婚)・娘

しこ名(力士名):栃ノ心剛史

所属部屋:春日野部屋

初土俵(デビュー):2006年(平成18年)19歳の時、3月場所で初土俵を踏みます。

番付:関脇

 得意技 :右四つ・上手投げ

改名歴 :栃ノ心 剛 → 栃ノ心 剛史

 

経 歴

栃ノ心は、来日して相撲を始める前は地元ジョージア国(旧グルジア)で小学生になるころには柔道とそしてジョージア国(旧グルジア)伝統の格闘技、式武術”チオダバ”を始めます。

 

弟もまた同じく相撲と柔道の強豪選手だったのですが、兄である”栃ノ心”の練習に対するストイックさにはとてもかなわないと言わせるくらい、”栃ノ心”の強くなりたいという気持ちから来る練習の量はハンパなものではありませんでした。

 

 

さらにソビエト連邦で開発された、戦場で相手の命を奪い、また自分の命を守るためのものでもある軍隊格闘術、”サンボ”という格闘技も経験し厳しい練習をつみ習得します。

 

 

さらに”栃ノ心”は、軍隊格闘術サンボでヨーロッパ王者になったこともある実力派の格闘家でもありました。

 

不運の連続だった”栃ノ心”の相撲人生

 

2018年の初場所では横綱が停滞しているなか一人”栃ノ心”だけが自分の相撲を取り続け、好成績を残し絶好調をキープ、相撲ファンを魅了しています。

 

 

しかしそんな”栃ノ心”ですが、反面”栃ノ心”という力士ほど浮き沈みの激しい波乱万丈な相撲人生を送った力士は過去にいないのではないか?とも言われています。

 

力士生命の危機を乗り越え奇跡の復活

”栃ノ心”は元々運動神経は抜群な上に練習に対してはとてもマジメ、ファイティングスピリットの凄い力士で、しかも小学校の時から、柔道や格闘技などを習得していました。

 

 

2006年(平成18年)19歳の時、3月場所で初土俵を踏み、日本の大相撲界にデビューして以降順調に出世し、2007年11月場所では東幕下筆頭で勝ち越しを決め、ジョージア国(旧グルジア)出身力士では”黒海”以来2人目の関取となりました。

 

 

翌2008年1月場所では、十両西12枚目で12勝3敗の成績を収め新十両で優勝、翌3月場所では9勝6敗の成績を残し、十両を2場所で通過。5月場所で初土俵から13場所と史上10位タイのスピード記録で新入幕を果たし、その後順調に 小結まで昇進していきます。

 

しかし、2013年(平成25年)7月11日、”栃ノ心”26歳の時 対、徳勝龍(とくしょうりゅう )戦でそのアクシデントが発生します。

 

 

土俵際で徳勝龍(とくしょうりゅう )を吊り上げて土俵の外にだしたときに右膝前十字靱帯(みぎひざぜんじゅうじじんたい)と、

 

 

内側側副靱帯(ないそくそくふくじんたい)を断裂、通常の人の体重を遥かに超えた体重を支え、膝を極限にまで酷使している力士にとってこの怪我は力士生命に関わる決定的なものになってしまいます。

 

 

現にこれまでの長い大相撲の歴史の中でこの怪我から復活を遂げた力士は一人もいませんでした。

 

その後の”栃ノ心”は、 3場所を連続で休場し、幕下55枚目まで落ちてしまいます。 3役経験者がこの地位から復活を遂げた例もこれまでありません。

 

 

”栃ノ心”本人もこの時ばかりは引退を決意せざるを得ない状況になり、実際引退を決意したのですが、

 

 

しかしこの時師匠である春日野親方は”栃ノ心”を叱責、そして「お前ならあと10年は必ずやれる・・・大丈夫だ!!」と励まし続け引退をさせませんでした。

 

 

そして、その心にうたれた ”栃ノ心”の復活の奇跡がここから始まるのです。

 

 

そんな″栃ノ心″、幕下55枚目から42勝2敗で一気に幕内に復活します。「元々 実力があったのだから当然だ!!」という人もいたそうですが、果たしてそれは本当にそうでしょうか?

 

人間はそんなに強い生き物ではなく、、また”栃ノ心”本人の頑張りはもちろんのこと、親方をはじめとする周りのサポートや心配りなどもこの「奇跡」を生んだ要因だと考えるべきではないでしょうか。

 

 

今、大怪我をしてリタイヤしている人や、色々なことから どん底に苦しんでいる人 、

 

 

そんな人達にとって、ほぼ不可能と言われていた” 栃ノ心”の復活は 「自分も頑張ればもしかしたら復活できるかもしれない・・・」 という励みに、もしかしたらなるのかもしれません。

 

 

夢と希望を与えるということがスポーツの最大の魅力であり、”栃ノ心”は力士としてほぼ不可能という怪我から、諦めることなく見事復活を果たします。

 

本当の復活とは?

”栃ノ心”は、まず自分の復活とは?何をもって復活なのか?とそう考えました。

 

 

” 栃ノ心”曰く、2013年の怪我に見舞われる前の自分を超えることを第一の復活と位考え、大怪我をする前の小結の地位を超えること、これを復活の達成と考えていました。

 

しかし2015年(平成27年)、28歳の” 栃ノ心”は小結で10勝をあげながら関脇に昇進できないという不遇を味わいます。

 

 

しかも ” 栃ノ心”は、もともと運がない力士と言うことも関係者の間ではいわれており、 前頭筆頭で9勝しても昇進できず41年ぶり3人目の不運力士と呼ばれていました。

 

マスコミはあまり有名ではない外国人力士のことをそれほど細かく報道しないので誰も知らないことなのですが、まぎれもない事実です。

 

 

しかし” 栃ノ心”自身は諦めませんでした。

 

 転機が訪れたのは、2016年(平成28年)に入ってからです。

 

長年の遠距離恋愛の中″栃ノ心″を色々な面でサポートしてくれた幼なじみの恋人と結婚を果たし、本当の意味での復活の準備が整っていきます。” 栃ノ心”29歳の時です。

 

 

結婚した奥さんの名前は、”ニノ”さんといいます。

 

この年2015年(平成27年)″栃ノ心″は、2勝5敗で苦しい場所を戦っていたのですが、8日目以降に、

 

この”ニノ”さんが突如として観戦に訪れるようになってからは怒濤の8連勝。勝ち越しどころか敢闘賞まで受賞します。

 

 

そしてついに関脇昇進。 「小結」から→「幕下55枚目」→そして→「関脇」への昇進。

 

これほど波乱の相撲人生を歩んだ力士はこれまでいませんでした。 この奇跡の復活昇進をとげた時は、”栃ノ心”はもとより彼をそれまで支えてきた周りの人々が心から昇進を喜び泣します。

 

 

「心」の大切さを説いた親方

入門当時の” 栃ノ心”は門限破りの常習犯でもありました。しかしそんな彼に親方は「栃ノ心」という名前を与えます。

 

 

時には人々の期待も裏切り、大怪我をして引退も覚悟し、決して強い人間ではなくむしろ心は弱いほうだといいます。

 

 

しかも不運の連続の相撲人生。 それでも周りから愛され続けていました。 見た目は荒らしく粗暴そうに見えますが、

 

歯科医師免許も取得しているジェントルマンでありインテリ派の力士。 そして何より繊細な性格の持ち主だといいます。

 

 

そして 2016年(平成28年)29歳、日本の大相撲に飛び込んで10年目でつかんだ初の関脇昇進。

 

 

それは”栃ノ心”の相撲人生の1つの到達点であることは疑いようがない事実であり、努力は必ず報われる。

 

” 栃ノ心”はその象徴でもあり人種を超えて我々日本人にも希望を与えてくれる存在でもあります。

 

まとめ

技の「鶴竜」か?パワーの「栃ノ心」か?6日目でそう話題を呼んだ大相撲2018年初場所。果たして奇跡の復活を遂げた努力の人”栃ノ心”の優勝はなるか?最後まで目が離せない大相撲初場所です。

 

2018年1月27日(追記)

栃ノ心は、初場所14日目の取組に勝って1敗を守り、28日の千秋楽を待たずに初めての優勝を果たしました。平幕力士の優勝は平成24年夏場所の旭天鵬以来6年ぶりとなります。

異国の国で邁進する栃ノ心さんは今年は勝負の年、今後も栃ノ心の活躍を応援したいと思います。

ラッパーECDの画像と経歴、 日本語ラップの先駆者を支えた妻もまた素晴らしかった!!

ラッパーECDの画像と経歴、日本語ラップの先駆者を支えた妻もまた素晴らしかった!!について書いて見ました。ラッパーECDさんは、日本のヒップホップ界の先駆者であり、また草分け的存在でもある人で、1980年代から活動、主なCDに「失点 in the park」など15ものアルバムがあり、またラッパーECDさんは反原発、反差別などの社会運動も展開し、作家としても活動をしていました。

 

常に新しいヒップホップを表現した時代の先駆者!日本語ラップの先駆け的存在だったヒップホップのレジェント!!

 

ラッパーECD(石田義則)さんのプロフィール

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本名 :石田 義則(いしだよしのり)

生年月日: 1960年3月29日

没年月日:2018年1月24日(57歳)

出身地:東京都

家族:妻(写真家の植本一子)、娘2人

職業:ミュージシャン(ラッパー)・DJ・音楽プロデューサー・作家

活動期間(デビュー):1987年~2018年

レーベル:
・Major Force( メジャー・フォース)
・Pヴァイン(ピーヴァイン・レコード)
・cutting edge(カッティング・エッジ)
・Final Junky(ファイナル・ジャンキー)

共同作業者 :

イルリメ「llreme)「本名:鴨田潤)」関西出身のヒップホップミュージシャン

 

引用元 Wikipedia


ラッパーECDの経歴

1987年(昭和62年):27歳の時、ラッパーECDとしてDJ活動を開始。しかしラップ界のMCとして活躍するのはこの後まだ先になります。またこの年ラッパーECDは、日本の音楽(DJ)機材メーカー、べスタクス株式会社(VESTAX)主催のDJ大会で優勝し、新人ながらラップの世界で一躍有名になります。

 


1989年(昭和64年):29歳の時には自身でMCを発掘するイベント「Check Your Mic」を主催。このイベントにより、この後大活躍するZingi(ジンギ)やBoy-Ken(ボーイ・ケン)、さらには、By Phar The Dopest(バイ・ファー・ザ・ドーペスト)などを輩出しました。

 


1990年(平成2年):30歳の時、自身の12インチ・シングル「Picocurie」でMCデビュー。高木完(タカギ・カン)、藤原ヒロシ(フジワラ・ヒロシ)らによるインディーズ・レーベル「Major Force (メジャー・フォース)からのリリースとなります。

 


1994年(平成6年):34歳の時、エイベックス系列のレーベル【Cutting Edge(カッティング・エッジ)】に移籍。翌1995年(平成7年)35歳で、アルバム「ホームシック」をリリースします。

 


1996年(平成8年):36歳の時には、Buddha Brand(ブッダ・ブランド)をはじめ、多くのアーティストを招いての大規模なイベント「さんピンCAMP」を主催。自身も舞台に立ち、圧倒的なパフォーマンスを披露し観客を魅了します。

 


2003年(平成15年):43歳で、ベスト・アルバム「ECD / Master」のリリースを期に、レーベルを脱退。コピー・コントロールCDに対する不満から、CD-Rでのリリースを主体に活動を開始。

 


2005年(平成17年):45歳、自身初の自伝本「失点・イン・ザ・パーク」を発表。ここでは、自分はアル中であったとアルコール依存症の体験談が語られています。

 

近年では、警備員として仕事に従事する傍ら、MCとしての活発なライブ活動を精力的に行なっていましたが、2016年9月、56歳の時”上行結腸と食道に進行の癌”があることを医師より告げられ延命治療闘病の傍ら音楽活動も続けていましたが、2018年1月24日、21時36分入院先の病院で家族に見守られながら息を引き取りました。
 

※ラップでいうMCは、本人自身がラップのレコーディングやアーティストを行うのではなく、パーティーの進行や盛り上げ役などを行うためよくテレビなどでも司会者を意味するMC(master of ceremonies″(マスターオブセレモニー)″の略)という呼び方をラップの世界でもこのように呼ぶようになっています。

 

24歳年上のラッパー・ECDを支えた写真家の妻

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ラッパーのECDさんには、24歳年下の奥さんと2人の娘さんがいます。奥さんの名前は「植本一子(うえもと いちこ)」さんといい、子育てに追われ写真家としての仕事ができず、24歳年上のラッパー・ECDさんの毎月収入16万5,000円で家庭を切り盛りしながら、家事や娘2人の子育てをしつつ夫を支えました。

 

本人曰く、その暮らしぶりであるドタバタ生活を家計簿と日記でつづった人気ブログ「働けECD」を2010年2月に開設。

 

またその人気ブログ「働けECD」が作品として単行本化され、その内容の凄さから現在話題を呼んでいます。

https://www.amazon.co.jp/%E5%83%8D%E3%81%91ECD-%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E8%82%B2%E5%85%90%E6%B7%B7%E6%B2%8C%E8%A8%98-%E6%A4%8D%E6%9C%AC-%E4%B8%80%E5%AD%90/dp/4943959296

 

夫ががんで余命宣告…外に恋人のいた妻がそのとき初めて知ったこと(植本 一子) | 現代ビジネス | 講談社(3/3)

 

ECDさんの奥さんである写真家の「植本一子(うえもと いちこ)」さんは、1984年広島県生まれの33歳。2003年、19歳の時にキヤノン写真新世紀で有名写真家である荒木経惟氏より優秀賞を受賞。 写真家としてのキャリアをスタートさせた実力派のカメラマンです。

 

 

『働けECD わたしの育児混沌記』(ミュージック・マガジン)

 

家事に追われ、早朝にラップで起こされ、震災や原発の恐怖におびえながらも懸命に生きる石田家の毎日を、ECDさんの奥さんである写真家の「植本一子(うえもと いちこ)」さんが、妻、そして母として切り取った子育ての日記です。

 

その本から5年。その間における、育児への葛藤、世間的常識の中で感じる生きづらさ、家族とは母とは何か、

 

 

また「好きな人ができた」と夫に言った・・・など新しい恋愛との出会いなどを書き綴った冊子が2015年自費出版され、それらに書きおろしを加えた単行本『かなわない』(タバブックス)が刊行。ECDさんの奥さんである写真家の「植本一子(うえもと いちこ)」さんが淡々とありのままに日常を書き綴っているのですが、

 

 

そのリアルさや力強い筆致から伝わる心の機微や生きる意志に思わず胸打たれる1冊となっています。

 

「家族に強いあこがれがあった」植本一子が語る、かなわなかった理想と自分なりの家族像|サイゾーウーマン

 

ECD石田義則さんのラップ動画

http://live-sora.com/isida-tosinori-siinn-geiin-biyouki/

https://lutemedia.com/post/dax-ecd

まとめ

2016年初秋に進行性がんであることを公表したラッパー・ECDさん。実はECDさんの闘病ドキュメンタリーが、ECDさんのミュージックビデオ(MV)を手掛ける佐々木堅人氏がディレクション担当し、2017年2月1日公開されています。

先の見えない闘病生活の中、その生命を刻みつけるように音楽活動に勤しむ様や、ECDさんを支える妻である写真家・植本一子(うえもと いちこ)さんや幼い二人の娘の現在の生活も描かれています。多くの人に感動を与えてくれた日本語ラップの先駆者、ECDさん。心からご冥福をお祈り致します。